理性的な人なら誰にも疑えない、それほど確実な知識
エンジニアスクールおかげで、今まで敬遠していた多くの行為が抵抗なくできるようになりました。 「文章を書いて公開する」というのもそれです。 自分が何かを調べて理解した過程を、拙い文章でもいいからまとめて公開することで、知識定着に役立つだけでなく、「調べる」や「メモをとる」といった、直接コードを書かないインプットの時間までもが常にアウトプットに紐づいているのが実感でき、大変満足感が得られることがわかりました。
新しい試み
ということで(どういうことで?)、 今日は本の話です。 ペソアの「不穏の書」とラッセルの「哲学入門」を同時に読んでいます。
- 作者:バートランド ラッセル
- 発売日: 2005/03/01
- メディア: 文庫
実在と現象
例えば1杯のコーヒー。コーヒーを飲むとき、私たちは何によってコーヒーが実在することを知るのか。色、匂い、カップを持ったときの重み、それからもちろん味等々...コーヒーが存在することを証明する事実は山ほどあるように思える。 しかし、一番確実な「コーヒーの味」一つとっても、例えば淹れたての時と時間が立って冷めてしまった時の味は異なるし、舌の先の方に当てた時の味と喉の奥の方で感じる味は異なる。一口ごとに、口に入る量も一定ではない。どれが本当のコーヒーの味なのか?分からなくなる。
ラッセルは言う。
五感が直接教えることは、私たちから独立な対象についての真理ではなく、センスデータについての真理にすぎない。
出典:バートランド・ラッセル(2005)『哲学入門』(ちくま学芸文庫)
我々が直接触れられるのは、感覚によって捉えられた現象(=センスデータ)のみである。センスデータは、何らかの実在を示す記号(記号ってなんだ?)ではあるものの、実在そのものを感覚で捉えることはできない。
ここまで考察した上で、コーヒーは実在するのか?といえば、途端に分からなくなる。本当は何も存在せず、我々はコーヒーの味や香りといった感覚のみを与えられているのかもしれない(VRみたいな)。
このように、一見確実に思える、疑いようのない事柄に対して、問いを立てる力を哲学は持っている。そして、その問いは今も解決していない。
世界一有名なあの言葉
「我思う、故に我あり」(ルネ・デカルト)とは、哲学者の名言の中でも一二を争う有名な言葉だ。 全てを疑った結果(方法的懐疑)、唯一確実に思えるのは、感じ、考えている自分がいるという事実のみだ、というアレである。
自分が存在すること、我々にとってこんなにも確実なことがあるだろうか。 しかしラッセルはここにも突っ込んでいく。
「われ思う、ゆえにわれあり」は余分なことまで言っている。昨日と今日とで自分は同一の人物だと私たちはかたく確信しており、またある意味でこれは疑いなく正しい。しかし実在の[本当の]自我は、実在のテーブル同様到達しがたいもので、一つ一つの経験に備わる。
出典:『哲学入門』
最も確実に思える自分でさえも、時間軸の上でみると決して一つの実在として捉えられないというのである。
私はここでペソアを引用したい。(ペソアは誰でも引用したくなるらしい。)
もうずいぶんまえから、私は実在しない。私は完璧に平穏だ。この私が別人であることに誰も気づかない。私は、あたかも新たなことを、あるいはやるべきだったことをやり終えたかのようにほっと一息つくのを感じたところだ。意識を持っていたことを意識しはじめたのだ。
出典:ベルナルド・ソアレス(ペソアの異名)(2013)『不穏の書、断章』(平凡社ライブラリー)
どうだろうか。私はラッセルの提起した問題と通じるものがあるように感じた。「いま、ここ」にある自分ですら、直前まで実在せず、「意識を持っていたことを意識しはじめた」ばかりであると誰が疑えよう。
他者の存在を疑う
かつて考えたことはないだろうか。自分以外の人々は本当に存在しているのかと。 デカルトのように自分の存在以外のあらゆる物を疑ってかかれば、当然他者の存在も揺らいでくる。 他者とはなんなのか、考え、意識する主体は本当は世界に自分だけなのではないだろうか。
この普遍的な問題についても、ペソア節が炸裂する。
つねづね気になってしかたがないのは、いったいどのようにして自分以外の人間が存在するのか、どのようにして私の魂以外の魂が、私の意識とは無縁の様々な意識が存在しうるのかということだ。私の意識は意識であるかぎり、そのことによって存在する唯一のものと私には思われる。
出典:『不穏の書、断章』
これぞまさに、という感じである。他者の存在に関して私たちの誰もが少しは持っている疑いの念を、めちゃくちゃ的確に言い表してくれた。ありがとう、ペソア。
まとめと感想
「理性的な人なら誰にも疑えない、それほど確実な知識」を追い求め、いまだに解決できていないのが哲学だとしたら、そんなものが何の役に立つのだろう。だけど、解決できる問題のみに価値があるのかと言えば、そんなことはないはず。人生の問題のほとんどはすぐに解決しないものだし、何より問いを立てること自体が難しかったりする。それと、解決できない問題を切り捨てて行けば、どんどんつまらない人間になってしまうだろう。
そんなわけで、普段はプログラミングばっかりですが、今日は人文系に行ってみました。学生時代は夏休みの読書感想文を提出せずに逃げ切るくらいこの手の文章に苦手意識があったのですが、書いてみると意外と楽しいものですね。
上でペソアの本のあとがきで池澤夏樹が「ペソアは危険だ。人に憑く」みたいなことを書いていましたが、確かにどの文章も無性に引用したくなったので、憑かれていたのかもしれません(笑)しかし、それも心地良い体験でした。